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| フルセットの末、名人を防衛した小林光一名人(右)(1992年) |
平成4年(1992年)、小林光一は番碁に明け暮れた。主要7棋戦のうち天元戦を除く6つのタイトル戦に出場。その天元戦でも、勝ち抜いて挑戦者決定戦までいった。古くは坂田栄男が8つのタイトルのうち7つを占めていた時代があるが、最近では珍しい集中ぶりだ。 当時、小林が牙城にしていたのが棋聖戦と名人戦。棋聖は昭和61年(1986年)以来、名人は昭和63年(1988年)以来の連覇がかかっていた。
これらと本因坊戦が「2日制七番勝負」。1局の碁の持ち時間が1人8時間で、2日かけて打つ。この年、小林はこれら三大棋戦にすべて出場し、どれも7番戦った。他の「1日制五番勝負」と合わせ、番碁だけで34局も打った計算だ。番碁の舞台は大抵が地方の旅館やホテルで、場合によっては前泊と合わせ4泊することもある。体調を整えるだけでも大変だ。
小林が40歳になった9月に名人戦が始まった。挑戦者の大竹英雄は木谷(実)道場の先輩。先手(黒)、後手(白)を交互に持つ6局目まで黒番が勝ち3勝3敗。7局目は改めて先後を決め直し小林は白番に。最終局も終盤まで黒がわずかにリードしていたが、小林が「一目得するヨセの妙手を発見した」のが決め手となり逆転勝ちした。
名人戦にやや遅れて進んでいた藤沢秀行との王座戦については前回紹介した通りだが、小林が「名人戦疲れでスタミナが続かなかった」のも事実だった。結局この年、棋聖、名人、碁聖は防衛に成功。本因坊、十段、王座への挑戦は失敗した。
棋聖は平成5年まで8連覇するが、最後の3期はどれも7番フルに戦った。敗れた平成6年を含めて計7回カド番をしのいでいる。特に小林にとって印象深いのが平成5年の加藤正夫とのシリーズ。4局目の終盤、目算で錯覚があり、半目勝ちと思っていたのが半目負けとなったのだ。計算に自信を持つ小林のショックは大きかった。
これで1勝3敗となり流れは加藤に向いたが、6局目に「悪かった碁を半目差で拾った」のが大きく、防衛に成功。もともと兄弟子の加藤を小林は大の苦手としており、一時、通算で19勝36敗と差を付けられたが、昭和63年の棋聖戦で勝ってから苦手意識を克服。8連覇中、3回も加藤を負かした。
トップ棋士のなかで小林は遅咲きの方。一時期、挑戦者決定戦になると「入れ込みすぎ」でよく負けていた。しかし30歳代半ばから棋聖戦、名人戦を中心に快進撃。平成の初頭は文字通り第一人者として君臨した。
しかし、そんな小林にも相性の悪い棋戦があった。本因坊戦と王座戦だ。特に本因坊は棋聖、名人との「大三冠」を目指す小林には垂ぜんのタイトルだったが、4回の挑戦権を得ながら、ついに頂点に上れなかった。阻んだのは宿命のライバル、趙治勲だった。=敬称略
(日本経済新聞社文化部編集委員 木村亮)
[2004年5月9日/日本経済新聞 朝刊]